宇治神社の謂れ
応仁天皇の末の皇子「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」は出来が良くて、父が次期天皇にと推挙して崩ずるが、「お兄さん(後の仁徳天皇)がいるのに自分が天皇になるわけにもいかねえ」と天皇の位を兄に譲り、自分は宇治に離宮を建てて移り住んだ。(
ここが離宮社と称された所以
ともいわれる)。しかし、兄もまた、「天皇であった父親のきめた事を変えるわけにはいかない」と、弟に皇位をゆずろうとした。3年間の譲り合いにより、人民大いに惑い天下は乱れる。これを憂えた弟「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」は自らの命を絶ってしまう。兄の仁徳天皇は莵道(うじ)の宮(邸宅)にて手厚く葬る。これが、宇治両宮のはじまりといわれる。
(左の解説板の補足)
「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の邸宅(離宮)跡。皇子の亡くなった後、邸宅跡にその霊を祭ったのが両神社の起こりと言われてます。
応仁天皇の離宮であったともいわれ、 「離宮明神」「離宮社」「離宮八幡」などとよばれていました。 平安後期から鎌倉時代、対岸の平等院の建立により、その鎮守社としての地位が与えられ
、藤原氏の庇護もあり、競馬、田楽・散楽など、「離宮祭」とよばれる祭礼が行われるようになりました。現在でも、毎年6月8日に「離宮祭」が行われています。
田楽は平成10年に市民の手により復興したそうです。
狛犬(宇治市指定重要文化財)は現在歴史資料館にあります。
(下狛犬解説板)
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