東海道五十三次

関宿

三重県亀山市関町木崎、中町、新所
     
東海道五十三次の47番目の宿場町
 東追分から西追分まで全長約1.8キロメートル、東海道の宿場町としては唯一の保存地
国指定 亀山市関宿伝統的建造物群保存地区 1984年(昭59年).2月10日選定)
日本の道百選 1986年(昭和61年)選定

東海道関宿

 関町は古代からの交通の要衝であり、古代には越前の愛発(あらち)、美濃の不破とともに古代三関の一つ「伊勢鈴鹿の関]が置かれていたところです。町名もこの鈴鹿の関に由来します。

 慶長6年(1601)、徳川幕府の宿駅制度化により、東海道に53の宿場が設けられました。現在の関町内には品川から数えて47番目にあたる関宿と、48番目にあたる坂下(さかのした)宿の二つの宿場が整備されましたが、東海道の旧街道を利用しての国道1号線の開通により東海道五十三次の宿場町のほとんどが破壊され坂下宿の往時の町並みは跡形も無く消え去りました。幸いにも国道の貫通から免れた関宿は、東海道の往時の面影を唯一残す歴史的町並みとして、昭和59年には、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。約1.8キロメートルに及ぶ関宿の町並みには、約400戸余りの町屋が表通りに軒を連ね、 この内の200棟余りが保存対象になっています。

町並みに配慮した銀行

 

伊勢鈴鹿の関

 伊勢鈴鹿の関が初めて歴史に登場するのは、天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)が皇位を争った壬申の乱(672年)の際、大海人皇子が鈴鹿・不破の関を固めたことによります。延暦8年(789)、桓武天皇によって三関は廃止されますが、その後も天皇の崩御や政変などが起こるたびに関が固められたようです。伊勢鈴鹿の関が置かれていた位置や規模、当時の「関」の様子などははっきりとわかっていませんが、現在の関宿の位置にあったと考えられています。

関町役場発行の「関宿イラスト案内図」参照

宿

追記

 関宿重要伝統的建造物群保存地区は、東追分、西追分の間、約1.8キロメートル、25ヘクタールに及び、 保存地区は、木崎・中町・新所・北裏の4つの地区に大きく分かれます。その中央には国の重要文化財にも指定されている関地蔵院があります。毎年11月3日の文化の日には街道祭りが行われ、最盛期には16基あり「関の山」という言葉の語源にもなった4台の山車(やま)が曳かれます。

関宿は、私たちの貴重な文化財であるばかりなく、「生活の場」でもあります。
見学にあたっては、特に下記の点にご協力下さい。(当たり前のことですが)
 * 町が公開している資料館などを除き、むやみに家の中をのぞかないでください。
 * くわえタバコ、吸殻の投げ捨てなど、火気には十分お気をつけください。
 * ゴミは各自お持ち帰りください。
 

交通

JR関西本線 関駅 徒歩スグ

車 西名阪・東名阪自動車道より名阪国道関インターチェンジより国道1号線方面へ

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